30代男性のゆるみきった日々の記録

私が読んだ本の感想、大好きなヤクルトスワローズ、食べたもの、日々起こったことについて、つらつら書いていきたいと思います。

何かしないといけない強迫観念

内的統制と外的統制という言葉を最近知った。
自分の状況を、内的要因だと捉えるか外的要因だと捉えるかの傾向を言うらしい。
要するに物事を自分のせいにできるか他人のせいにしてしまうかの違いだ。

僕は確実に外的統制が強いほうだと思う。
昨日も友達と珍しくZOOMで会話し、リビングにパソコンを置きっぱなしにしていたらそのコードに躓いて転けかけた。
そんな完全に自分の不注意でしかない出来事も、あいつとZOOMしなければこんなことにならなかったのにと、一瞬思ってしまうほどに。

以下に続く文章は、その傾向をはっきりと表していると思う。

最近何かしなきゃという漠然とした不安、もしくは強迫観念にさらされているのは、頑張ることがないから、熱中できることがないからというのはもちろんある。

野球のシーズン中は、ずっとヤクルトの応援をしている。
それが日課だし一番したいことだしすべてを忘れられることだからとはっきりと言える。

しかしオフシーズンは野球がない。
当たり前のことだがテレビ中継で一喜一憂する日々も、
残業で疲れてプロ野球速報アプリでヤクルトは今日も負けたのかと苦笑いして明日は頑張ってくれよと思うことも、
神宮球場で夕方から生ビールを飲み、試合に負けて友人とやけ酒を飲むこともないのだ。

その大きな喪失感が原因であるとは思う。
しかしもしかしたら、自分は小学生の頃にした中学受験勉強で、やりたくはないけどやらなきゃいけないこと、
つまりずっと勉強とか意味あることをし続けなきゃいけないという強迫観念から、解放されていないのかもしれない。

中学受験中は親に怒鳴られ時には叩かれ、大変な思いをした。
その後の人生で全然自分は頑張れず、頑張れないまま今日を迎えてしまったのは、そのせいかもしれないと思っていた。

ただそのことを考えると、いつも高校教師に言われた言葉を思い出す。
「お前こんな年にもなって、自分の生き方を親のせいにするなんて、そんなの間違ってるだろ」

今でも確かにそうだよなと思う。
ただその時は、お前は僕の辛さが分かっていないじゃないかと反発してしまった。素直に受け入れて頑張れていたら、どんなに良かっただろうか。

今、頑張れないことへの言い訳を、都合よく昔の、不都合で辛い思い出に、つなげているだけなのだから。

だから本当の意味で、この強迫観念と決別するために、目標やしなければならないこととは別の、熱中できるやりたいことを見つけなければなぁと思う。

そしてもしそれが苦労を伴うことでも、自分をなだめすかして実行する自己統制力、内的統制力を持たなければいけないなとも。

まぁもしかしたら、なになにをしなければいけないと思うことそのものから、解放された方が良いのかもしれない。
もはやそれは悟りの境地だから、もっと先のことになるだろうな。