30代男性のゆるみきった日々の記録

私が読んだ本の感想、大好きなヤクルトスワローズ、食べたもの、日々起こったことについて、つらつら書いていきたいと思います。

シン・エヴァンゲリオンを落語的に考える。【ネタバレあり】

エヴァンゲリオン
私はこの作品に人生を狂わされたと勝手に思っています。
勝手にですのでご容赦ください…笑
ちなみにこの記事はネタバレありとなっております。

初めてこの作品に出会ったのは、大学の受験勉強が始まっていた頃で、それまでこの作品を全く見たことがなかったのですが、新劇場版の破が公開されるということを知り、興味を持ちました。
確かサマーウォーズと同じ頃に公開され、家族ものとロボットものという全く別ジャンルの作品ながら、どちらの作品もアニメ史上最高峰の映像が観れるという噂を聞きつけ、時をかける少女が好きだった僕は、細田さんの新作はもちろんだけど、それなら両方見てみるかということで、友達と二人で観に行くことを決めました。
予習として序をDVDで見て、ヤシマ作戦は熱い展開だったなぁなんてことを思いながら、劇場で初めて破を観たときは、衝撃を受けました。
あんまり興味のない友人と二人で行ったのですが、そいつも開始10分で、「これは凄いわ…」と呟くほどに、とにかく映像も音楽もストーリーも役者さんの演技も最高で、とんでもないものを観てしまったと興奮したことを、今でも鮮明に覚えています。
そっからはもう受験勉強そっちのけで、過去のテレビシリーズも旧劇場版も観ましたし、アスカが好きだったので旧劇場版であんな結末になってしまったアスカを何とか幸せにしたい思いからか、二次創作を読みまくり、2chのLAS板に入り浸り、破も劇場で10回くらい観た記憶があります。
何なら次回の上映時間を埋めるためだけに、サマーウォーズを観たりもしてたので、ホントに痛々しいオタオタしい最後の高校生活となってしまいました。
もうこの時点で受験勉強を投げ出して虚構の世界にどっぷりはまってしまっているので、浪人確定していた訳ですが、そういう意味で私はこの作品に狂わされたという訳ではなく、その時点で自分が、虚構媒体、アニメや映画やドラマや演劇や小説と様々ある媒体の中で、自分は何らかの形で一生の仕事にしたいと思っていた小説媒体というものが、破のような圧倒的に、もはや否応なしに人間をアドレナリンのるつぼへと誘ってしまうような媒体に勝てる要素があるのかと考えだしてしまい、将来の指針を失ってしまったのです。

小説によくある地の分や文体の面白さすらも、映像ならモノローグでいくらでも心の声を役者さんが感情を乗せて入れたりできるし、なにより音楽もロケハンもCGもVFXも、なんでも使い放題じゃないかと、予算や製作期間という制約はあるにせよ、例えばそれが無尽蔵にできるようになれば、小説なんていらないじゃんと真剣に考えていました。
今でこそ、小説を読みながら登場人物表を自分で作り上げる面白さや、自らがその作品世界に同化してどんな場面なんだろうと想像する楽しさはよく理解できますが、当時の私は全く理解できず、そんなのめんどくさいだけじゃないかと思っていました。(じゃあなんで小説を仕事にしたいなんて思ったんだと言われたら、人生で自分を一番助けてくれたのは、まぎれもなく小説だったからだと思います。)
よく小説は、自分の想像で人物も舞台も想像して、自分の中で世界を構築することができるからこそ面白いのよという人がいますが、じゃあエヴァンゲリオンの脚本読んで、映像で表現された世界よりも面白く表現できるやつがいたら連れて来いよと思っていたし、そんな自分が想像した映像なんかより、プロが作り上げるものの方が100倍良いに決まっていると思っていました。
もしそれができる人がいるとすれば、その人はクリエイターの才能があるからそういった方面で能力を発揮した方がいいし、何よりそれは大部分の人に当てはまるものではないじゃないかと。

当時の私はそれについて真剣に悩み続け、何とか命からがら大学の日本文学科に入った後ですら、ときどき思い出してはくよくよ悩み、なんとなく編集者になりたいなあなんて思いつつも、小説という表現ジャンルに対しての優位性が見いだせないのに目指すなんて言うのはうんぬんという、いわば都合のいい言い訳のようになりながら、何の努力もせずだらっと就職し、現在に至るわけです。
その時の自分が今、目の前にいたら、人間は、物体や生き物、映像を見ている時ですら、その対象について、言葉によって捉え、考えることしかできない生き物なのだから、そこに直接働きかけることができる言葉、というものだけを駆使して物語を作り上げる小説という媒体は、言葉で書かれているというその一点のみで、ほかの表現媒体と比べて優位性があるんだと僕は思うよと、言ってあげたいですね。
もちろん映画における風景描写や役者さんの名演による、言葉にならない感動というものだって溢れるほどたくさんあります。
なのでどのメディアが優れているなんてことはなく、その媒体の特性がただあるだけだということに気づいたのは、もう少し後になってからでした。

話がかなり脱線しましたが、とにかくそんなエヴァンゲリオンのせいで(実際はただ自らの怠惰のせいで…笑)、人生を変えさせられた私が、今回のシン・エヴァンゲリオンを観て思ったことは、今回の作品は案外、落語の抜け雀がモチーフになっているのではないかということです。
冒頭の旧ユーロネルフでのシーンで、マリが「べらぼうめ!一昨日きやがれ!」と叫び、「細工は流流」等の言葉が出てくることから、これは落語の演目である「大工調べ」を意識した台詞回しであると考えられます。
落語には、よく出てくる登場人物というのが複数いまして、その中でもよく出てくる登場人物に、与太郎というのがいます。
この与太郎という人物は、一見すると頭が悪く、言ってはいけないことを平気で言って人を怒らせ、本人は我関せずで気にしないという、むしろ頭が悪いのではなく、すべて見抜いたうえで発言しているのではないかとこちらに思わせるような、独特の底が知れない魅力がある、落語には欠かせない登場人物です。
「細工は流々、仕上げを御覧じろ(私なりに、工夫は十分凝らしてあるので、出来上がりを見て、ものを言ってください)」という昔の大工さんがよく使っていた言葉の意味を枕(ネタに入る前の雑談)で振られ本編に入っていく「大工調べ」にもその与太郎は登場し、大工をしている与太郎の道具箱(工具箱のようなもの)を、家賃滞納のために大家さんに取り上げられ、お金を返そうにも仕事ができなくて困っていると棟梁に相談したところ、こんな感じで話せば向こうも分かってくれるというアドバイスを、そっくりそのまま、「道具箱とる方が悪いんだから返してくれるに決まってる。あたぼうだよ。あたぼうも知らねえのか。当たり前だべらぼうめを略してあたぼうだ」とかすべてを話し、大家を怒らせ、仲介に入った棟梁も大家にお前も偉そうにするなと馬鹿にされて啖呵を切り、裁判に持ち込み、名奉行大岡越前様がそれを取り上げ、未払いの家賃はすべて払うように与太郎に命じ、道具箱を止め置いて仕事ができなかった分の金を、大家に負担させる形で未払い家賃以上の大金を取り返す話なのですが、最後に大岡越前が、この調べ(裁判)の勝利を称え、「さすがは大工は棟梁」と言ったのに対し、「へえ、調べを御覧じろ」と棟梁が言い、追い出し太鼓がかかるという、だいたい落語会や寄席の最後に行われる、いわゆる大ネタなのです。(ちなみに古今亭志ん朝さんの大工調べがおすすめです。)
それを踏まえて冒頭のシーンを考えていくと、このシーンは劇場公開に先駆け、冒頭部分をイベントで初お披露目したものなので、色々趣向を凝らして作っているから、完成して最後まで観てからなんかものを言ってくれよなという庵野さんのメッセージにも感じられますし、いわば自らの大ネタに取り掛かっている意思表明ではなかったのでしょうか。

そんな風に考えていくと、ラストシーンは私にはどうしても、これまた落語の大ネタである「抜け雀」から着想したのではないかと思えてくるのです。
抜け雀のあらすじは、貧乏な宿屋に来た小汚い客が、大酒を飲み何日も滞在するが、結局お金を払ってくれずに、その代わりにと言って雀の絵を描いて立ち去る。
宿屋の夫婦はこんな金にならない絵なんて置いておかれても困ると話すが、次の日の朝、陽が差し込み、絵に描かれた雀にそれが当たると、絵から雀が抜け出てきて、動き出す。
そんなもの見たことがないと客が殺到して物凄い繁盛宿になり、いまお泊りはトイレしか空きがございませんし相部屋になりますみたいな状況になってくる。
そんな中一人の年配男性が宿にやってきて、「この絵は失敗作である。このままでは雀は死ぬぞ。」と話し、慌てる夫婦をよそにその絵を貸せと言い何やら描き加える。
夫婦は大事な絵に描き加えをするなんてと怒るが、次の日の朝、光を浴びた雀たちは今まで同様に抜け出し、絵の中に戻っていく。
その絵をもう一度見てみると、止まり木とカゴが書かれていることに気づき、それが絵の中になかったから、雀はこのままだと休むことができずに、死んでしまうと言ったのかと理解するという話なのですが、落ちは、絵を置いていった絵描きが綺麗な身なりになって宿に戻ってきて、止まり木と籠が書かれている絵を見て、それは自分の親が書き加えたものだと知る。
そこでその絵描きは、「自分は本当に親不孝だ」と宿の亭主に話し、亭主は「こんな雀が現実に抜け出るような絵を描く名人になったのに、どうして親不孝なところがありますか」と言うと、「親を駕籠かきにした」と答えるという落ちです。駕籠かきとは、江戸時代に人力で客を乗せた籠を運んでいた人で、荒くれ物が多く客の金品を盗んだりするものが多かったそうで、悪い職業のイメージがあったことから、カゴ描きと駕籠かきをかけた落ちになっています。(春風亭一朝さんの抜け雀も良いですし、立川志らくさんのこのネタをモチーフにしたシネマ落語「タイタニック」も面白いです。)
さて、それを念頭にこの作品を考えると、まさにこの抜け雀で行われた止まり木を描く作業というのが、シン・エヴァで行われたことなんじゃないかと私は思うのです。
前回の旧劇場版である「Air/まごころを、君に」において、庵野さんは虚構に浸る人々に対し、現実に帰れ、という強いメッセージを打ち出すため、なかなか破滅的なストーリーと映像表現を駆使しましたが、当時を知らない私が言うのも的外れかもしれませんが、それゆえに、その破滅的なストーリーに自分を重ね共振した人、二次創作や同人誌などでそれらを否定しようとした人、強いトラウマを植え付けられ何もできなくなってしまった人が大勢いたからこそ、この作品は人々の心に残り続けた面もあるのではないかと私は考えます。
僕はこの映画も大好きですし、文化には、人を否応なく変えてしまう側面もあるので、それについては全く悪いとかそういう話では一切ありません。
しかし、現実に帰れって言われたって、現実が辛いから虚構に浸ってるのに、なんでそんなこと言われなきゃいけないんだよって人もいたでしょう。
そして庵野さん自身がめちゃめちゃオタクで虚構どっぷりな人なのに、自己矛盾じゃねえかと思った人もいたのではないでしょうか。
それから時間が経ち、結婚もして、人生観も変わった庵野さんが、そういった声に応え、そして自らも答えを出すために作ったのがこのシンエヴァなのではないでしょうか。
今回もラストシーンや、エヴァの戦闘シーンでスタジオ見切れちゃうとか、登場人物がスタジオから出ていきシャッター降りるとか、手描きに戻るといったメタフィクションのような表現を使って言いたかったことは、旧劇場版と同じでこれは虚構に過ぎないのだから、現実に帰れというメッセージなのだと初めは思いましたが、しかし現実に帰れという人が、来場者特典で作品のキーワードを集めた小冊子配ったりしないでしょうし、あんなに楽しそうにマリとシンジくんが、ラストシーンで庵野さんの故郷の宇部新川駅から出ていかないと思うのです。
旧劇場版と印象が全く違うのは、今回は現実に帰れというメッセージではなく、現実を少しでも楽しく、大切に生きようねといったテーマになっているのだと私は考えます。
抜け雀の絵の中にいる雀たちにとって、抜け出てくる今我々がいる世界こそが虚構であり、絵の中の世界が現実です。朝日を浴びてこちらの世界に抜け出てくることは、まさに虚構を楽しみ現実を忘れる我々そのものといえるかもしれません。
そんな我々に対し、庵野さんは、虚構にどっぷり浸かっていたら、止まり木がなく、現実世界で地に足つけて休むことができない雀のように、いつか弱って死んでしまうから、現実世界の中でも、自分が休むことのできる止まり木をしっかりと作り、その上で虚構を楽しみなさいよということが言いたかったのではないでしょうか。
それは共同生活をしながら、日々の暮らしを大切にしている第3村でのシーンからもそれがうかがえます。
農作業、医療活動、物流といった人々の生活を支える労働、人との触れ合い、助け合い、家族や恋人、友人などの共同体の大切さを、あんなにも丁寧に描かれるとは、全く予想していませんでした。
また、庵野さんは昔、自分の代表作がエヴァンゲリオンのまま終わるのは嫌だという話をしていましたが、新劇場版という過去作をリビルド(再構築)していく作業の中で、スタジオも新しく作り、新しいスタッフさんが入り、今まで同様、いやそれ以上にクオリティの上がっていくこの作品群を、自分の代表作だと、感じざるをえなくなっていったのではないかと思うのです。
パンフレットで、多くの声優さんが話していましたが、アフレコ時に庵野さんから「このキャラを演じるのがあなたで良かったです」と言われたそうです。そういったスタッフさんや声優さん、映画関係者、そして妻である安野モヨコさんがいてくれたからこそ、この作品が素晴らしいものになったんだという感謝から、宇部新川駅の実写映像の中を、あくまでアニメとして書かれたシンジとマリが、駆け出していくラストになったのではないかと、名画がゆえに、現実に抜け出てくるようになった抜け雀のように、様々な人の力で織られた素晴らしいアニメーション作品になったがゆえに、登場人物が抜け出てきたという表現なのではないかと、思ってしまうのです。
TVシリーズから旧劇場版、新劇場版へと続く円環の物語からシンジたちは抜け出し、庵野さんが過去に感じていたこの作品を超えられずに死んでいくのではないかという不安、そして観客が感じていた物語の魅力がゆえに抜け出すことができないエヴァの呪縛から、ストーリー上も現実の上でも、解放させることに成功したからこそ、今回のシン・エヴァンゲリオンは大傑作であり、シリーズすべてをまたさらに名作の高みへと押し上げた、そんな作品になったのではないかと思います。
鑑賞後にエヴァが思い出になったとファンが口々に言うのは、作品との折り合いがついたというその証拠かもしれません。
私もこの作品から受け取ったメッセージを大切に、現実世界での止まり木をきちんと整え、楽しみ、虚構も楽しんで生きたいと思います。
本当にありがとう。そしてさようなら、また逢う日まで。すべてのエヴァンゲリオン
これまでもこれからも、この作品が大好きであったと、生涯忘れずにいたいです。

でもシンジくんは本当に親不孝ですね。親を串刺しにした。